武道では、負けることは死を表し、考え方としては、死を賭して戦うわけなのです。

武道も時と共に変わって行き、剣道であれば防具を付け、刀は竹刀になったりと、負け=死 をクローズアップするではなしに、精神であるとか、鍛え上げる肉体であるとか、武道という一つの道を行く者への教え、心持も変わってきているようです。


釣りは武道ではないですが、名手と呼ばれる方々はそれぞれに釣りを探究した「釣り道」があるのではないかと思います。

「名手十人がいれば、一人も同じタイプの釣り師はいない」の喩えのように、個々精進された集大成は、中々真似のできるものではないと思います。


釣りでは、沢山釣る人、大物を釣る人が、釣りの得手不得手を計る、一番解りやすい尺度だとは思います。

釣りを趣味としない方に釣りの話しをすると、決まって両手を広げて「今まで一番大きなのは、どれくらいのを釣ったんですか」と質問してくることでもそれは窺えます。

ただ、釣りは大物狙いだけとは限らず、淡水のタナゴ、ワカサギのように、かなり小さな魚であっても、その数を競ったり、カワハギのように、掛けた、エサを取られたの攻防が醍醐味の釣趣もあったりします。


「最強ではなく最高を目指す」とは、柔道家の井上 康生さんの言葉で、彼は「僕のなかで、侍の心は柔道の精神とイコールなんです。目指すのは最強というよりも最高。強さではなく心の部分が大切でした」と遺しています。

この言葉は、「肉体的にはいつまでも最強でいれるものではないが、精神的にはいつまでも最高を追いながら積み重ねられる」と聞こえてきました。


釣りはその大部分が精神的な部分に支配されていると言っても過言ではなく、その中でいつも最高を目指すことによって、より充実した内容の釣りとなって行くのではと思います。